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2013年1月30日水曜日

卒・修展 四日目 ゲスト:粟田大輔さん

本日はとうとう午後ラジ最終日です。
ゲストは美術批評家である粟田大輔さんです。

はじめに学部生4名の講評を行っていただき、すぐあとにトークを開催、最後に修士生1名を講評していただく流れとなりました。

1人目は中村奈緒子さん。午後ラジのゲスト講評ではおなじみです。
今回はどのような部分に突っ込まれ、展開していくのでしょうか。

中村奈緒子さんの作品タイトルは「こんにちは」。
真っ先に粟田氏は先端カタログの中村さんのステートメントを引用。
「ワタシハ ニワシ ヨウコソココヘ ココハ ワタシノ オニワナノ ドコモ カシコモ ソコラジュウ キレイナ オハナヲ サカセルノ (先端カタログ参照)」
という文章があるが、面白いと評価。
中村さんはよく詩を書くそうです。この詩は庭師の絵を描いているときに思っていたことがぎゅっと凝縮しているのだそう。
そこから粟田さんは作品全体の空間も”庭”をイメージして構成しているのかと問いかけると、そこから発展していったと中村さん。

穴にひもを通すような絵は、その形式上ビット絵やピクセル画のようで、デジタルっぽいことに粟田さんは着目。中村さんにとってそこは狙いではなく、穴を使って図柄を作り出すときに細かくならないためピクセル画のようになっているのだそう。
粟田さん「へたうまが好きなのかなって。ナカザワヒデキさんが吉祥寺で展示やってるけど行くといいよ。相当収穫があるんじゃないかな。すごい仕事量だし時間がかかると思うけど、制作中ってテンション上がってくるの?どんどんできる感じ?」
中村さん「連続した作業が好き。えんえんやってられます。」
また、素材のビニールヒモは色が入り過ぎたり素材がかわい過ぎないよう、男前要素として採用したのだそう。中村さんには素材の選び方にも独特の肌触りがあるようです。



また粟田さんからはモチーフ選びついて質問が入ります。
そもそもこの作品に登場するモチーフは家、庭、花、犬などで、初等教育の頃に出会うようなイメージ群だとの指摘が。犬とかいるけどこれは何故?
しかし中村さんはモチーフに関しても独特なセンスを発揮しています。中村さんは作っている最中に「犬つくらなあかんなぁ(動物モチーフ欲しいな・・)」と思ったのだそう。それで発想したのはバイオハザードのゾンビのような気持ち悪い犬だったようです。
粟田氏「ゾンビ犬とかは中村さんの危なさが出てる。良いな。」
また粟田氏はイメージソースやストック、データベースがあるのかどうか問いかけると、中村さんはあえてもうけていないとのお答えが。
粟田氏「でも、ちょっとそういうの(過去など)を調べてみてもいいかも。教科書の図版であったり、イメージの記憶がどこから来てるのか、どんなものがあるのか。」

先日よりもモチーフやイメージ作りに重点が置かれた講評となりました。


次は飯田有佳子さん「[あなたと]あの子の見つけ方」
飯田さんの作品にはニュースで見た記事からインスピレーションを受けたものとなっています。そのニュースとは、新宿で1人の人が何もない空間をじーっと見ていたら、何かあるのかと集まってきた何人かが、一定時間の間ずーっと同じ方向を見ていた、というもの。
それは例えばホラー映画でいうと、物語が終わってモニターを消しても、今度はその余韻で部屋に何かいるんじゃないかという気になってしまう現象に通ずる部分があるんじゃないかと飯田さん。
物語が終わってもその余韻の中で自ら別の物語を物語ってしまう、それを映像メディアと組み合わせて舞台を作り、表現しようと試みたのだそうです。

粟田氏「間接的に影響を受けたニュースがきっかけというのは興味深い。ニュースの物語を別の物語として表現するということ。カメラは映像の見る/見られるの関係、直接的な関係性が構築される。別のメディアを通すことで間接的に見えないものが見えるようにしようという試み、こういった間接的なのはすぐれた作品がやってるケースが多い。映像でやるのは難しいと思うが、チャレンジしていってほしい。物語を解体するというのは抽象芸術などがやってきた。それを利用しベタに物語に落とし込むという方法論も良い。抽象度高いと読まれにくい。是非展開してほしい。」





お次は浅古綾香さん「夢の跡」です。
東京で生まれ育った浅古さんですが”東京は滅んでしまうのではないか”という不安を抱いているそうです。
大きなきっかけは東北の大震災。
事故や災害としてだけではなく、国や社会が隠し事を持ってることを強く実感してしまったのだと言います。
危機に瀕していながらも見ようとしていない自分というのにも気付き、目を逸らすことへの怒りなどが混じってこのような都庁の周りを発砲ウレタンの雲のようなものが覆いかぶさるイメージへと発展したようです。
その方法論は特撮映画、ゴジラなどが同じように生まれたのだよと粟田氏。
粟田氏「1954年ビキニ島核実験によって起きた第五福竜丸事件をきっかけに製作されたのがゴジラ。ゴジラは水爆実験の不安から出てきた一つの形であり表象である。慶応義塾大学アートセンターの「ゴジラとアトム」すごい面白いので読んでみると良いよ。」

 作品化することで不安はどのように変化を遂げたのか粟田氏が問いかけると「もっと考えなければという気持ちは高まり、形にしたかといって発散されることはなかった」と飯田さん。
粟田氏「不安という動機を継続し高めていく”器”みたいなおものを見つれば更に発展するのでは?不安の強度の圧縮の仕方を見つけられるんじゃないか。目立て器にさらに入れ子の箱みたいな、不安・無意識のパラドクス。メタ化してく必然性ある。」



次は片山慈子さんの「歩道と流転の引継ぎ」です。
こちらも午後ラジではおなじみの作品です。
この作品には初期状態というのはなく、ただいつまでもどこまでも分解され北も南もなくなる世界地図が存在しています。

粟田氏「積み木という要素がまた、初期教育で学ぶ遊びのルールなどに通ずる気がする。政治性は孕んでいるのか?」
片山さん「社会問題は意識していません。一歩の歩道、世界地図というみんなが知ってる記号というこの一点だけにポイントを置いていました。」
粟田氏「でも、たとえ本人が意図していなくても、要素があるだけで人にはどのようにも見られてしまう。それこそ入り込んで来ちゃうんだから、逆にそこは片山さん自身入り込んでいったほうがいい。そこがないといくらでも突っ込まれてしまうよ。」




学部生のラストは田村かのこさん。タイトルは「ミュージアムショップ」
この作品は田村さんが勝手に先端生の作品のポストカードを展示場内で販売するという衝撃的なコンセプト。
この作品を実現するため東京都美術館と行った交渉についても語ってくれました。

先端は昨年まで横浜のBankArtという会場での卒展が主流で、企画運営全てを学生が行い、上野の芸大卒展ではそのドキュメントのみの展示という形態でした。
それが今年は一変し、芸大上野で卒展を行うことが決定されました。
学部生は東京都美術館での展示となり、穴開きの壁で禁止事項の多いこの場所は今までの先端の流れを考えると不向きな場所といえます。その状況から考えだしたのがこの作品。
美術館の構造について考えた作品だといいます。
普通、展示会場には作品が展示されている。非常に価値がある、という目で見られる作品が並べられているもの。しかし会場を抜けてミュージアムショップに向かうと、そこには作品を縮小し印刷されたポストカードやグッズが、「作品」としてではなく「商品」として安価で販売されている。ミュージアムショップ自体が商業空間として「作品」を取り扱っている。その差はなんなのか。展示されていればそれは作品で価値があるものなのか。
「鑑賞者は何故、別々の価値を受け入れているのか」ということへの問いかけが今作品では行われています。


それを考えるため、展示会場にミュージアムショップを設置し、そこで先端生の作品ポストカードを実際に販売する作品を作ったのだそうです。
ですが一つ壁がありました。
東京都美術館では「個々の作品を売る」ことを禁止しています。
そこで田村さんは言い方を変え、「団体として売る」ものであると主張したそうです。
すると展示も販売も許可が降りたのだそう・・!
ただ言葉を変えるだけで、田村さんさすがですが、驚きました。
さらに、先端が独自に作ったカタログのステートメント内には「コンセプト」を販売する契約書が載っています。カタログを購入することで、購入者全員に田村さんの作品コンセプトを購入する権利が生じるのです。
サインと印をしてもらえれば、と田村さん。
粟田さんは「構造がねじれていて面白い」と好評価。
粟田さん「昔読売アンデパンダン展というのがあったでしょ。あれはまさにこの場所だった。何をやっても自由だったわけ。でも田村さんは、東京都美術館に逆らうとか攻めるという方法ではなく、”言い方を変える”という振る舞いでコンセプトを示していったのが変わってる、というか、異なる部分だね。戦いの方は選ばなかったという。で、最終的に狙いは何なのか?」
田村さん「展示会場にミュージアムショップがあることにお客さんは「おかしいな」と思う。意識的に考えるきっかけになったら。」

粟田さんから田村さんへの問いかけと提案に対し、カタログの権利販売の話をしたり、既に考え行動にうつしている田村さんに粟田さんは感服といったご様子でした。

学部生の講評会が終わり、、場所を変えてラウンジークのセッションへ。プレゼンの準備までしていただいておりました!話は、美術批評家になった経緯と、現在につながるキュレーションや、自らの批評の立場や歴史性についてお話しされました。博識な知識に裏打ちされたお話に、ラウンジメンバーは皆興味津々でした!






最後は久保ガエタンさんの講評です。
久保さんは「オカルト」への視点が作品のコンセプトになっているようです。
「オカルトから狂気へ」というのをキーワードに、社会と結びついた「狂気」について考えているそうです。
粟田氏「超常現象に作り込みの見方を提示するのは面白い。オカルトはもう現実的になったと。作品のインパクトはあるからもっと内と外の見方のアプローチを見せてほしい。日常と非日常の区分がないまぜになったのでその往還を考えるのは難しいよね。」
とのことでした。



総評として粟田さんはこのような言葉を残してくださいました。
粟田氏「今迄は外部にいたわけで、それが内部になったことで、問題やモチベーションはどうなっていくんだろうか、というのが気になる。色々な実験を、「先端芸術表現科」をふまえた上で、アクションはどんどん起こしていけばよいのではないだろうか。」

作家は内部を外部化したり、外部を内部化して作品を作っています。そのため、内部と外部の視座や考察、そして内外におけるやりとりやプロセスは重要なキーワードだと思います。また、内部性と外部性に関する視座や考察は、自身の日常であったり生活であったり、また世界の情勢や日本の未来について考えていく上でも身近です。
3月11日の大地震によってがらりと変わった自身の内部と外部の世界について考えざるを得ないし、様々な作家にとって、少なからずこれまでとは違う表現の発露のきっかけとなっているでしょう。

その上でどのような内外の関係性を導き出してゆくのか。
内部と外部についてどんな視座を持つ作品が現れてくるのか。
とても興味深い問題が立ち現れたトークでした。

4日間のトークイベント「午後はラウンジで会いましょう」上野篇でした。
怒濤のような日々、濃密でカジュアルなイベントとなったと思います。
さまざまな考えでさまざまな感覚で、さまざまな表現手段と主題をもった作品たち。
東京芸術大学の卒業・修了作品展を楽しむ上でも、また先端芸術表現科の作品を楽しむ上でも、非常に価値のある企画であったと思っております。

ご来場、ご来聴の皆様、誠にありがとうございました。

来年の卒業・修了作品展にも引き継がれるのでしょうか。引き継ぐべきでしょう。
実に楽しみです。




文責 林友深 三野新


2013年1月28日月曜日

卒・修展三日目 ゲスト:後藤繁雄さん

イベントも後半戦へと突入します。
三日目のゲストは編集者、そしてクリエイティブディレクターとして活躍される後藤繁雄さんです。
本日は、学部生と修士合わせて5名の作品講評を行っていただきました。
本ブログでは後藤氏の言葉にカギカッコを付ける形で、会話形式の表記も交えつつ簡単にご紹介させていただきます。


まずは東京都美術館の学部生の講評です。



一番手は中村奈緒子さん。タイトルは「こんにちは」。

はじめに皆さんコンセプト等を説明してくださいます。
中村さんは最初にコンセプトありき、ではなく、手を動かしていくことでだんだんと発想が生まれ、またそれを作り上げてゆくというプロセスを踏んだ作品制作を行っているそうです。
今回は板に穴を開けてみたところからはじまり、穴を開けたら穴を埋めたい衝動が生まれ、今回のような作品に仕上がっていったようです。
穴にすずらんテープを通してみたりホースを通してみたり、裏板との間を開けて普段は見ない糸がのびる空間を作り出したり、様々な方向に発想は転換されていました。
後藤繁雄さんは「発想のプロセスが空間化されていてそれが見える。制作プロセスを作業量で勝負するのはいい方法論だと思う」と評価。

また、描かれるモチーフについて後藤氏からの質問が飛びます。



後藤氏「花に水をやる農夫のようなモチーフはどこから?」
それは中村さんが幼い頃見たホームレスの女性がお花を育てている風景の記憶と繋がりがありました。
後藤氏「モチーフの拾い方に、先端生の人たちは共通点があるね。」
民族衣装を着た子どものモチーフは、かわいいけれど現代的ではない服というイメージから民族衣装へと発展しています。扉を行き来する男性のイメージは、とある映画の些細なワンシーンに惹かれたことが発想のきっかけだそうです。

後藤氏「中村さんにとって作る事とはなんですか?表現する、ということよりも作ることについて。」
中村さん「作る理由は掘り起こせばなんでもあるといいます。ただ、ずっと手を動かしていたい。」



最後に後藤氏からアドバイスがありました。
後藤氏「発想のプロセスは面白いが、小鳥の模型が取り付けられていたり紙に書いたイメージが貼ってあったり、思いつくものが増えてゆく・付け加わってゆくことで作品が良くなるのかどうかというのは別の問題がある。ルール、ここで止めよう、というのが必要だ。洗練されるかどうかではなく、作品を作る上での『甘え』をストップしてみるといい。」
中村さんも深く頷いておりました。


とにかく手を動かしていたいという中村さん。作業量は作品から強く伝わってきます。
後藤氏「作るのが好きなんだな〜」と感心。



お次は三嶋一路さんの「L.T.C.E.M」です。



三嶋さんは美術館に展示できないものを写真によって既知作品にしています。
ルールを更新していくことがルールである美術史。美術史そのものを写真にうつし込む目的があるのだそう。また、タイトルはマルセル・デュシャンの「L.H.O.O.Q」をもじっています。
後藤氏は「わからないと思うよ」とタイトルについて指摘。
三嶋さんはそこにミスリードの可能性を受け止める意志というのを込めていると言います。デュシャンのことや美術の知識を持つ方ではない一般の方々にも、最低限の情報、つまり東京都美術館において展示できないものを写真作品として展示しているということが伝われば良い。写真を6点に絞っていることはうまくいっているかいないかは難しいが、整然とした状態を目指したのだそう。
理解する部分と誤解を受け止める部分。そもそも作品の「理解」について、後藤氏から鋭い問いかけがあります。
後藤氏「誤解の生じる比率が少ないところ、『正解』がハッキリし過ぎているのはつまらないのでは?正解と誤解がレイヤー化されている方が面白いのでは?撮影が丁寧なのが弱いところでもある。ストレートにざっくり撮影した方がアプローチしてる感が出そう。これはなんだかすかしている感があって、破壊力が出ていない。丁寧にまじめにはめ込もうとしているように見える。」
コンセプトと作品の見え方や表現の仕方に関する距離感や、作者の意図と鑑賞者からの見え方に関する難しい問題が浮き彫りになりました。



次は森未央子さんの「東京白昼夢奇譚」。




こちらは漫画の一枚一枚が並べて展示されています。東京の白昼夢に迷い込み、東京のいつも見ている部分と違う一面というのと出会っていく少年のファンタジー作品。
後藤氏「”漫画”なのか”文学”なのか”サブカル”なのか”アート”なのか、どこを目指している作品なの?」
森さんにとってそれはマーケットの違いでしかなく、表現には変わりがないため、どのように取られても構わないのだそう。
後藤氏「モチーフでアニメや漫画を扱うことが当たり前と思われているが、”アートの強さ”でいうと、うまくいっている人は少ない。表現には変わりないというのは確かだが、放っておいてイラストがアートとして拾われて評価されることはまずない。偶然評価されるということは起きない。アートとして評価されたいと思う部分があるのなら、それを意識すべき。漫画による表現は既視感があり、かぶることも沢山ある。ストーリーものなら厳しくそれを考えなければならない。森さんの作品からは昭和のような雰囲気がある。サブカルチャーとして、アナログ表現でノスタルジックに、アンダーグラウンドな世界を作り出していることは面白いと感じる。」



作家としての厳しい現実、覚悟や意識の作り方は大切なことなのだとあらためて気付かされる指摘でした。




次は片山慈子さんの「歩道と流転の引継ぎ」です。



こちらは階段状になった立体がペントミノになっており、側面や上面に世界地図が描かれている作品。なんとこちらは鑑賞者自身がそれぞれの立体を移動させ、様々に構成を変えられるのだそう。その資料としてあらゆる形のペントミノの写真が壁面に並列されています。
片山さんは”人が共有できるもの”とはなんだろうと考えているのだそう。”楽しい”という一つをとって考えてみても、それぞれの経験等に則してあらゆるバリエーションを持つ”楽しい”という感覚を、本当に共感しているかを確認することはでいない。しかし、人は”1人”という単位が絶対的に同じである。そこは共有できる唯一の部分ではないか。そして”楽しい”のバリエーションにも制限はある・・。そこからこのような世界地図、ペントミノを鑑賞者に動かしてもらう、階段状になっている、等の要素が見出されていったようです。
ただそのようなコンセプトを成立させるために、この表現形態がふさわしいのかどうか後藤氏の指摘が入りました。
後藤氏「写真の資料のほうがわかりやすい。キューブだけじゃまずい。バリエーションとして示したいのだろうが、立体はアーキテクチャなので、可動性、流動性、可塑性、変形性というのを持つかどうかわかりづらい。また”表現”が入ってきていることはよいのか。手書きで世界地図を、赤色だったり様々な色で描いているが、地図の描き方に意図があるのかないか、それがわかりにくくしている気がする。もっとクールでよいのではないか。観念を具現化する上で余計なファクターが入り過ぎのように見える。」



見え方の意識、鑑賞者の捉え方というのを作家は常に考えながらつくっています。自分の意図、鑑賞者からの意図、それを図りながら作品を作り上げていくことの困難に、どの作家もぶつかっていることが見えてきました。





次は場所を大学美術館に移し、修士の講評を開始。

野口健吾さんの「庵の人々」。




ホームレスの方々に取材をし、写真と映像によってその情景をとらえた作品です。
彼は大学では社会学を勉強していたそうです。時代の鬱屈というのを誰もが感じているであろう中で、人間の生きる理由や日本人の死生観が考えており、そこからホームレスという、いわゆる普通の生活とは引き離された彼らが、いったいどのように生きることを捉えているのか、それを追って写真作品に落とし込んでいます。
後藤氏からは写真作品と映像作品どちらがメインなのか問われました。野口さんは写真をメインにしているとのこと。しかし写真作品の距離感と映像作品の距離感は明らかに違っています。



後藤氏「ホームレスの方達を撮影させてもらうのには交渉などがあるし、簡単にできることではない。大変だと思う。そこに踏み込んでいることには作品としても社会学的にも進んでいるし価値があると思う。映像作品は彼らとの距離が近いが、写真はとても客観的な視点になっている。確かに客観性があるほうが写真は格好よくなるけど、君にとって、その方が果たしていいのか?迷ったりしないの?引いて撮ることはサンプルとして撮ることになる。サンプルでいいならいいけど、でもそうじゃないと思う。」



補足をすると、写真作品は建物と人がやや遠目から撮影されたもの等もあり、どの写真も一定の距離を保って撮影されています。そこにホームレスの方々をどのような関係性や距離感で野口さんが関わっているのか、表現をしたいと思っているのかという、鋭い問いかけが飛びました。
野口さんは自分の気持ちは置いておいて、客観的に彼らを撮影するよう心がけているのだそうです。
そこに後藤氏は切り込みます。
後藤氏「自分のフィクショナルが介入してゆくことが嫌なんだと思う。その方向で、もう一発突っ込みがほしい。1人1冊ブックをつくるとか。最後のアウトプットがあっさりし過ぎてる。」

野口さんの死生観とゆう深い問いかけを写真作品が応えてゆくために、どうアウトプットしていくかという問題が浮かび上がりました。

作家は誰もが自己顕示欲によって、自分をさらけ出すことを目的に作品を作っているわけではありません。作品に”自分が介入する”ことについて、被写体との距離だけではなく、自身との距離感についてさえも考えさせられる講評でした。




最後は絵画棟の1階に移り、三野新さんの「あたまのうしろ〜play # 04〜」の講評です。



三野さんの作品は彼の率いるヒッピー部というパフォーマンスユニットの活動のドキュメントにもなっており、床置きの作品のほうは舞台を再現するような形でマケットが展示されておりました。
彼の舞台は、写真というイメージをもとにして人が動き、人が喋るパフォーマンスを作っています。はじめに物語ではなく、はじめにイメージありき。そこから生まれた言葉を分割したり、一緒にしたりしながら、写真に合わせてストーリーができていくという仕組みになっているそうです。また、舞台に写真を撮った写真家自身は登場しません。
後藤氏「ある種、写真論だね。」
その通りだと三野さん。しかし写真について考え舞台を作っていく中で、ジャンルの問題、演劇の方法論の問題などが生まれていったそう。
写真家の身体に巻き込まれつつも耐えられるような作品にしたい。と三野さんは語ります。



そこから後藤氏が写真の本質について切り込みます。
後藤氏「写真は不条理を含んでいるが、そこをどうするか、だよね。」
三野「写真は具体的なので、写真と向き合うことがすごく現実的なのかなあと。」
後藤氏「あとは役者、それだけでストーリー性が高い大物役者を使ったら面白いかも。エントロピー(※熱力学に基づく用語)が肥大するようなのができたらいいね。演劇的な素養はどこなの?」
三野「ベケットです。それは物語の問題としてです。身体性としては古いと思っちゃう。だから写真にすると面白いんじゃないか、と。写真としての強度を大事にしたいです。」
後藤氏「ナラティブになったらやだ。ステージでアタックしなよ。写真が現実を震撼させる方向がいいのでは?やなぎみわのようなものを逆から粉砕する。粉砕したいでしょ?」
三野「したいです。笑」

後藤氏は舞台のほうは見た事がないというのに、どんどん話が展開します。

写真の不条理性―死 ということについて、三野さんは写真のゴロっとした感触をただ提示するだけでも面白いのではないかと思う、と語っていました。
後藤氏も「面白いと思うよ」と共感なさっていました。

物語性に執着しないこと、そして写真の不条理性・・・。まとめるのが難しいほど、非常に高度な内容となっていました。





最後に後藤氏に東京芸術大学の卒業・修了制作展を見た感想としての総評をしていただきました。

後藤氏「丸の内アートアワードトーキョーのこともあって各大学の卒展は15校くらい見てます。毎年見てます。その上で、今回の東京芸大の卒展の傾向について思うこと。それは物語性の高い、ナラティブなものを表現の方法論にしてる人が多いなということ。それは優しいとも言えるが、逃げともとれる。林千歩(油画)の作品のように、妄想の強度でどんどんやりきってく方向もあるが、もっと思考実験に向き合うべき。きっとコンセプチュアルな作品でうまくいったという実感がないのだと思う。”話せばわかる”ではないものを作らないと。芸大って悔しいことに全体的に強度はすごいあるんだけど、決定的に”やられた”と感じるもの、新しいものってのはない。すごいやってるんだけどね。」


文章にするとなかなか厳しい指摘があるように感じ取れますが、実際のところ後藤繁雄さんはとても作家に親切で優しいという印象がありました。
作家の問題、作品の強度の問題などをすみずみまで指摘し、拾い上げて、その上で否定せず具体的な改善を共に追求してくださる姿にありがたく感じましたし、勉強することが多かったです。
自身も、論理的思考や、意識の作り方、もっともっと甘えないで活動してゆくぞという士気が高まり、いい経験ができました。


明日は昨年先端芸術表現科を退任なさった、高山登さんがゲストです。
明日をお楽しみに!


文責:林友深

2013年1月27日日曜日

卒・修展二日目第二部 「日比野克彦×PandA」トークを聴きにいこう!

午後ラジ後半は都美館×PandA主催イベント「日比野克彦×PandAトーク」を聴きにいこう!でした。

ゲスト講評参加者を引き連れて、東京都美術館1階のラウンジで行われた先端芸術表現科教授の日比野克彦先生とPandAによるスペシャルトークイベントを聴きに行きました。
ラウンジは日当たりがとても良い広々とした空間で、気持ちのいいイベントになりました!エントランス近くの休憩スペースということもあり、たくさんのお客さんに参加していただけました。

はじめに、日比野先生から「とびらプロジェクト」と「PandA」の概要を説明して頂きました。



「とびらプロジェクト」とは、美術館を拠点に、アートを介したコミュニケーションを促進し、オープンで実践的なコミュニティの形成を目指すプロジェクト。
約90名の「トビら−」とよばれるアートコミュニケーターによって構成されています。
名前の由来は、「扉」と東京都美術館の略称である「都美」をかけているとのこと。

「PandA」とは、「Produce and Action」 の略で卒業修了学生だけでなく様々な学年・学科の学生が横断的に連携し合い、アイデアを出しあいながら卒修展をより魅力的なものにしていく為のプロジェクト。
そして、トビらーのみなさんの自己紹介と活動報告をしつつ、日比野先生とのトークが進みます。
 

左から、美術教育修士一年の渡辺くん、日本画4年の清水くん、杉浦さん、日比野先生、デザイン科4年の渡辺さん、先端4年の田村さん。

トビらーの皆さんは、日比野先生に、進学についてや、卒業後の話、作品の制作と発表についてなど様々な質問をぶつけていました。



日比野先生曰く、PandAとは作りたいものを作れるようにするためのアクションである、とのこと。
自分たちがやりたいことを実現させていくため、自らで環境を整備していくことは、社会に出てから非常に大切なスキルだそうです。それをまなぶことのできる「PandA」はとっても素晴らしいプロジェクトですね。

卒業を間近に控えた学生たちのリアルな「今」の心境、そして、芸大出身の大先輩でもある日比野先生の、経験に基づいたとても貴重なお話は、なかなか他では聞くことのできない興味深いものでした!

  また、今回のトークイベントでは、現役高校生もお客さんとして参加してくれていました!
なんと芸大に入りたいとのこと。。。がんばって欲しいです!
ではでは、、明日のゲストは後藤繁雄さんです。
お楽しみに!


文責 修士二年 謝花翔陽

卒・修展二日目第一部 ゲスト:「とびラー」山近さん、黒田さん


卒業修了制作展二日目、本日の午後ラウンジは二部構成で開催しました!
前半は、とびらプロジェクトのアートコミュニケータ「とびラー」の山近さんと黒田さんによる公開講評です。



まずはゲストお二人に「とびラー」になられたキッカケをお話しいただきました。

グラフィックデザイナーの山近さん(画像右)
「“美術館を気軽に来れるものにしたい”という気持ちでとびラーに」

黒田さん(画像左)
「障害を持つ方と見る美術がきっかけで東京都美術館との縁ができたことから」

と美術をより身近なものに、と語るおふたり。とても穏やかな雰囲気で講評がはじまりました!




トップバッターの萩原梨奈さん
装飾のもつ拘束性について。一見おいしそうでかわいらしいのに、「大罪こそ誉れ(檻と鑑はよく似ている)」というタイトルとはものすごいギャップがある、とゲストのおふたり。萩原さんは無自覚だったようです。



森未央子さん
東京を舞台にした奇妙なグラフィックノベル。製本も自分で行ったそうです。
「想像力が掻き立てられる、いろいろな読み取りかたができる作品」との評を頂きました。



原薆さん
家族写真を細かく裁断して枝のように繋げた作品。デジタル写真が中心となり現像・プリントもなかなかすることのなくなったいま、写真の物質としての存在感を大切にしたい、とのこと。ゲストのおふたりからは作品の繊細さとタイトルとの整合性を評価されていました。



飯田有佳子さん
ジオラマの中のモニターから映像が流れています。
「4分程度の映像ですが、それらを4分きちんと見る人もいる。ジオラマだけさっと見る、いろんな人がいるけど「自分が何にピントを合わせているのか」を意識してほしい。」
制作スタイルと作品の空気感がマッチしている、と山近さん。



片山慈子さん
「くっつける(=歩道とする)」というルールのもとに、階段を鑑賞者に動かしてもらうインタラクティブな要素のある作品。山近さんは実際に大きく階段を動かされてました。
黒田さんからは「共有、共通のものを自在に組み替えていくことができる、ということにものすごい可能性を感じる」と評をいただきました。




長塚梨南さん
タイトルはANIMALE("Animal + Male")という造語。大きい動物も小さい動物も一生の拍動は一緒。小さな動物の方が濃い一生を送っているような思いで、小動物をモチーフに制作された粘土を使った作品。
黒田さん「強いエネルギーも感じるけど、それ以上に包み込むようなやさしい愛情を感じます」




石谷さん
自身の教育実習の経験から感じたこと「美術教育」をテーマにした、サイレントのアニメーション。山近さんも美術教育に携わっていたとのことで、美術教育における問題意識について話が盛り上がりました。




白井亜沙美さん
「視線のたどり着く先」を考えて生まれた作品。skypeで話すときに相手と目が合わない違和感。慣れてしまうと通りすぎてしまう奇妙な感覚を感じ直してほしい、とのこと。三面鏡の様になっていますが、実際に座ると…?是非会場で鏡の前に座ってみてください。ゲストのおふたりにも奇妙な感覚を体験してもらいました。





最後は、田村かのこさん
芸術的価値がある芸術「作品」と、商業的な価値がある「商品」を、同じ空間に並べたらどうなるだろうか?という試みとして、本展示の作品のポストカードを販売するミュージアムショップを設置。また、この「ミュージアムショップ」のポストカードは東京都美術館の常設のミュージアムショップにて販売されており、この構造がこの「ミュージアムショップ」を作品として成立させる、とのこと。
黒田さんからは「作者と鑑賞者を繋ぐ作品だと思う」との評をいただきました。






ここで本日の午後ラウンジ、前半の部は終了です。たくさんの方にご参加いただきました。ありがとうございました!

2013年1月26日土曜日

卒・修展一日目 ゲスト:森弘治さん

とうとう東京芸術大学、卒業修了制作展が始まりました!
「午後ラウンジ」トークシリーズも上野に進出です。

「午後はラウンジで会いましょう」のトークイベントは、学生の講評会とゲストのトークがひとつながりで行われます。またゲストのトーク中はそれぞれ飲み物を手にとりつつ、和やかなムードで行われるため、これまでのゲストさんもリラックスされていて、ちょうどいいゆるーい空気でセッションされてるという印象があります。


さて、上野の第一日目である本日のゲストは作家の森弘治さんです。

最初は東京都美術館から出発し、学部生6名の作品講評をしていただきました。
この写真では、左から二番目に森氏がいらっしゃいます。


こんな風に連日「旗」を持って移動しています。見つけた方は是非近くに寄ってお話を伺ってみてくださいね。

はじめは三嶋一路くんの作品「L.T.C.E.M」の講評です。


次は森未央子さんの「東京白昼夢奇譚」



お次は江原愛梨(原 薆)さんの「紡がれた記録の記憶―「family photograph」―」


次は金野恵利香さんの「チャンネルズ」


次は飯田有佳子さんの「[あなたと]あの子の見つけ方」


ラストは足立靖明くんの「ことほどさように」



講評会が終了し、一行は二階へ移動し、森氏によるトークがはじまりました。




「午後はラウンジで会いましょう」のイベントはカッチリ緊張感のあるトークではございません!
お客さんにもゲストにもドリンクとお菓子をふるまい、和やかなムードでトークが進んでいきます。


森氏は多摩美術大学でどっぷり美術に関わり、卒業後はなんとマサチューセッツ工科大学(以下MIT)の大学院へ進学。もちろん美大とは全く異なる雰囲気であったようで、そのときのエピソードが語られました。
当時「パブリックスペース」という言葉すら知らなかったため、MITの先生には5・6冊の本を渡され(もちろん英語)、一週間で読んでこいと言い渡されたそうです。
しかし膨大な文章量を前に読み切ることができず、なんとか自分の意志を発しようとした結果、Tシャツに「パブリックスペース」と日本語で書いて「読めませんでした!その代わりにこれを書きました」とTシャツ胸元の文字を先生に見せた。すると「これがお前のレスポンスなんだな」と、許されたのだそう。

MITでは同級生や先生たちはすごい人たちばかりだったそうです。
当時の先生方は教えること、伝えることが巧みで、ロジカルでありクリアであり非常に素晴らしかったそうです。
「すごい人と出会うことは重要だ」と森氏は仰ります。
美術学校およびアートの世界では「コンセプチュアル」ということを思考することが多々ある。しかし「コンセプチュアルであるかどうか」以前に、そもそも日常におきる出来事の中にコンテンツはいくらでもある。普段の生活の中のありとあらゆるコンテンツに知覚体験は存在するし、プラクティスに繋がっている。
そう気付いた森氏は日常に切り込んだ様々な映像作品を作っていったそうで、イベントでは当時制作したいくつかの映像作品を鑑賞しました。

そのうちに森氏は、アメリカで生活するうちだんだんとしみわたっていった文化や日常と、やはり日本人として持っている感覚や周囲からの思われ方というのが混じり合っていった自身の体験に着目しました。
日本へ帰国した際も、日本人としての意識もありながら、以前と少し変わった日本の社会や日常というものと対面されたとか。
その頃ちょうど女性専用車両が導入されたり、また日本には英語の名前の店舗が沢山あることも気になったのだそうです。日本に暮らす日本人には流れを持ち当たり前として存在する出来事に対して、森氏は異なる視点を持っていました。そこから森氏自身の体験にひきつけた、新たな映像作品が展開していきました。



また、森氏は色んな人が介入してくるような様々なプロジェクトで映像作品を作っていらっしゃいます。
今回は多摩美術大学の映像演劇学科の学生たちと行ったプロジェクトをいくつか紹介していただきました。



こちらは「引用」を題材にしたプロジェクトです。
何かからの「引用」を台本にして役者が演劇として組み立ててゆく内容で、同じ「引用」でもグループごとに異なる演出がつけられ、それが映像作品となっています。
国会の答弁を引用したものは、ストレートに国会の答弁形式で2人の役者が代わる代わる答弁していくものであったり、全く答弁とは異なる動きをしていくものなどグループによって様々な演出で展開されていました。

他にはネットの掲示板によせられた質問と、それに対するレスポンスを引用した37分に渡る大作を一部鑑賞させていただきました。上の画像に映っているのがその映像です。
こちらは、いわゆるトピ主が「夫の年収」や「家庭の経済事情」について相談を書き込み、それに対して様々な階級の様々なレスが連なっていく掲示板の内容を引用しており、匿名性ゆえにプライベートなインフォメーションが多様に現れてくる非常に興味深い内容でした。
この作品では1人の役者がトピ主、レスをした人々のコメントから勝手に人物を想像し、全てを1人で演じ分けるというとてもシンプルな形態です。
そのためか非常にユーモラスで奇妙で、見ているうちにどんどん鑑賞者もその空気感に笑いを堪えられなくなっていきました。
役者さんの舞台がかった口調や声の大きさ、表情などが、書き言葉を語り言葉に変えてしまうのです。もちろん「引用」が題材ですから、言葉の節々を変えたりしてはいけません。しっかりと文語調に従って、口語調で台詞を言うのがなんとも言えない面白さを醸し出していたように感じました。

森氏いわく、この映像作品には英語で言う「tacticallity(大意でリアリティみたいなもの)」がある。レスをする主婦たちの日本におけるクラス、メンタリティが明確に現れてしまう、そこが非常に面白いのだと仰っていました。

いくつかの映像作品といくつかのプロジェクトをご紹介いただき、最後に森氏はアーティストを目指す私たち美大生へ、自身の体験に基づいて、いくつかの言葉を投げかけてくださいました。
わたくしのメモからの引用となりますので、すこし印象が変わってしまうかもしれませんがご了承ください。


本などから得た知識やセオリーと、自分の思考というのは必ずしも身近ではなく、距離があったり、なかなかセオリーを思考と結びつけてアートプラクティスとして展開するのは難しいものです。
しかしだからといってセオリーを忘れたり、セオリーに近づこうと無理をするでもなく、きっといつか繋がるときが来ると思って心の隅に残しておくと良い。
自分の心に素直になってほしい。
内側の心に正直に。
制作中に「何かおかしいな」と少しでも思ったら疑ってみることはとても大事。
プライベートなことでもアートになる。しかしこれに客観性を持たせること、アートとしての装置に引き上げ、客観性を持たせて鑑賞者と「シェア」することはとっても難しいこと。
だが、それができるのがアーティストの素晴らしい力だと僕は思います。
広い視野と広い知覚を持つというのもアーティストの素晴らしい力です。

みなさん頑張ってください、と仰ってくださいました。

卒業する学生たちにとっても、そうでない方たちにとっても、作家として活躍する森氏の言葉はとても学ぶことの多いものだと思います。
外を見る力と内側を見る力、そしてそれを他者とシェアする装置として引き上げる作業というのは人それぞれ違う形にはなると思いますが、誰にとっても重要であり必要なことなのかなと感じました。

さて、明日のゲストはトビらーの方達です!お楽しみに。



文責 修士二年 林友深